JR八高線竹沢駅にある貨物側線跡
伊豆稲取駅を訪れた記事の中で「出発信号機が生きている!」と驚きましたが、JRの貨物側線を現状を見るとやはり驚きを隠せないのです。
という訳で比較的簡単に行けるJR八高線の竹沢駅の貨物側線跡について見ていきたいと思います。
国鉄時代のローカル駅を調べていると「貨物側線」が設置されている駅が多かった様です。ローカル線の駅でポイントのある駅というと列車交換の出来る駅を連想しますが、大糸線の頸城大野駅などは交換設備が無くても貨物側線は存在した位です。
物流の主役が鉄道だった時代の話でだいたいが昭和40年代から50年代に廃止になっています。ちなみに伊豆急行の貨物終了は1980年、昭和55年です。
そういう訳で今から50年から60年前に役目を終えた施設の遺構ですから、現在現役のものは多分ありません。
そしてネットで「貨物側線」検索しても出てくる画像は鉄道模型のものか、草ぼうぼうの「跡」ばかりです。なかなか現役当時の姿を連想するのは難しそうです。
ホームへ入って高崎方へ行くと貨物側線の遺構が残っていました。レールも敷設されたままですが薄緑色のフェンスはそこそこ新しいので、現役時代は無かったと思われます。
そして画面左側のホームと同じ高さの部分はそれほど長くありませんでした。その奥に少し低くなった部分とコンクリートの柵がありますが、現在は鉄道用地では無さそうです。
しかしのちほど検証していきますが、この一段低くなったコンクリート柵部分が当時の貨物積み下ろし場だったのではないかと推測できます。
そして伊豆稲取駅に話を戻しますが、比べてみると伊豆稲取駅の貨物線の方が規模が大きい様に思えます。伊豆急行線では貨物側線ではなく貨物線と呼んでいます。そして片瀬白田駅方には出発信号機も備わっています。
しかし国鉄の貨物側線は貨車数両を停車させるための施設で、車止標識すらない訳ですから出発信号機も無く、入換信号機か操車掛の誘導で入換に使っていただけと思われます。
反対側から見ると旅客ホームと反対側は同じ高さです。現在車止標識はありませんが、色々調べてみると貨物側線は車止標識は無く、先端に緩衝枕木があっただけの様です。
言い換えると、緑のフェンスは無かったと想像出来ますが、当時も今とあまり変わらない感じだったのではないでしょうか。
車止に近いこの場所は油脂庫や納屋が建っており、荷役スペースではなさそうです。また小屋の風貌からいってもかなり昔からありそうな雰囲気です。
少し冷静になりGoogleの航空写真で俯瞰して見てみると、無理に車止ギリギリに停車させ、現在の倉庫の位置から荷役を行うより、現在空き地の場所にトラックが横付けされていたという考えの方がしっくりきます。
確かに高崎方の用地は現在JRのものではなさそうですが、既に貨物扱いが終了して60年が経過していますので、用地が売却されていても不思議ではありません。飯田町の貨物ターミナルだった場所でさえホテルが建っています。
模型視点で見ていると有効長との勝負で長さ感覚が狂うことがありますが、こうして航空地図で見てみるたとえ貨物側線でもしっかり有効長が確保されているのが分かります。
この駅は既に棒線化されてしまっていますが、奥のS字に分岐の痕跡が残っています。上下線の分岐の内方で貨物側線の分岐が行われていた訳です。
貨物側線の分岐部分を拡大してみました。保線用に残したのか、横取装置に変更されています。この状態ですと本線側は走行に影響を受けませんので、分岐器があることによる速度制限が要りません。
しかし側線に車両を入れる為には特殊なレールを設置して本線を跨がなければなりません。一方伊豆稲取駅は普通の分岐器が設置されていますので、分岐器を切り替えるだけで貨物線に進入できます。
一方伊豆稲取駅は分岐器が設置されていますので本来なら速度制限を受けますが、伊豆稲取駅は全列車が停車しますので、場内信号機は注意か警戒です。45km/h以下でしか進入しないので分岐器による速度制限は実質的には無いに等しいのが実情だと思います。
かつて交通の主役だった昭和30年~昭和40年代には大いに賑わっていたであろう施設が、こうして半世紀以上経つと痕跡こそ残るものの当時の姿を想像するのが難しい位になっています。
伊豆急行線も昭和55年に貨物輸送が廃止となり45年が経過しています。しかし色灯式の出発信号機が赤を表示している、しかもLED式に更新されていることに驚きを隠せない訳です。